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名古屋高等裁判所 昭和28年(う)416号 判決 1953年9月02日

主文

原判決を破棄する。

被告人を懲役八月に処する。

但し本裁判確定の日から参年間右刑の執行を猶予する。

原審における訴訟費用は被告人の負担とする。

被告人の本件控訴は之を棄却する。

理由

検察官大越正蔵及弁護人桜井紀の各控訴の趣意は本件記録に編綴の各控訴趣意書と題する書面記載の通りであるからここにこれを引用するが、之に対する当裁判所の判断は次の通りである。

検察官の控訴趣意第一、二点について

本件の起訴状を見ると訴因は名古屋市中村警察署勤務巡査尾関末雄、同吉野忠義の両名が警察官等職務執行法による所謂職務質問を為すに際し、被告人が右両巡査に対し暴行を加え、その職務の執行を妨害し、且その際原判示の如き傷害を与えたと謂ふに在るから果して本件の右両巡査の行為が職務行為として適法な行為であつたか何うかについて勘案するに、原裁判が適法に証拠調を為した原審公判調書中の証人尾関末雄、同吉野忠義の証人尋問調書、司法巡査尾関末雄、同吉野忠義作成にかかる昭和二十七年七月二十三日附現行犯逮補手続書、曾我正純作成にかかる尾関末雄、吉野忠義に対する各診断書を綜合して認め得る事実は次の通りである。即ち、名古屋市中村警察署勤務司法巡査尾関末雄、同吉野忠義の両名は上司の命により昭和二十七年七月二十三日午後九時頃当時頻発していた、釘様の兇器を用いて婦人を襲撃して傷害を与える特別傷害事件の犯人搜査を主たる目標とし、その他普通一般の職務を帯びて名古屋市中村区中村公園内を私服で警羅中同公園内千成池の中島の一角に被告人外三名の者が密談しているのを現認し、その情景に不審を抱いた右尾関巡査は先づ警察官であることを告げ、その場に来援した吉野巡査と共に右四名に対し順次氏名、年令、住居を尋ねたところ他の三名は之に応じ住所、氏名を答え更に任意に所持品を呈示して披見せしめたが、独り被告人のみは之に応ぜず氏名等を黙秘して語らない許りでなく右尾関巡査がその場の腰掛の上にあつた被告人の所持品と覚しき風呂敷包に気付き、之は何んだと云い乍ら風呂敷包に手を触れた時中に女のハンドバツクらしき物がある様な触感を得たので、前記特別傷害事件の犯人ではないかと直感したので、被告人に対し何か入つておるかと尋ねると、被告人は之はいかんと云つて手許に引取り書類が入つておると答え更に一寸中を見せて呉れと云われるや、人から預つた物だから見せられないと云い次いで見せる事が出来なければ近所の派出所まで同行して貰いたいと云われるや、悪い事はしていないから行く必要はないと云つて同行を拒み、その瞬間被告人は突然右風呂敷包を携帯した尽その場を逃出したので右両巡査は前記犯行の犯人であるか否かの真疑を確め且逃げる理由を問い質す意思の許に被告人の跡を追いかけたところ、被告人は偏々右千成池西側橋詰の処で転倒したため、右両巡査は相前後して被告人に追付き、尾関巡査が何故逃げるかと発問するや被告人は之に答えず、右両巡査が未だ質問の為の停止を求めるに先ち、倒れた尽の姿勢で矢庭に靴穿の足にて右両巡査を蹴り上げ因て原判示の如き各傷害を与えたものである。

凡そ警察の使命は警察法第一条に明定するが如く、国民の生命身体及び財産の保護に任じ、犯罪の搜査、被疑者の逮補及び公安の維持を図るを以てその責務とし、この責務を全うする為警察官及び警察吏員(以下警察官と称する)の行為規範として警察官が警察法に規定する国民の生命身体及び財産の保護、犯罪の予防、公安の維持並びに他の法令の執行等の職権職務を忠実に遂行する為に必要な手段を定めることを目的とする、警察官等職務執行法が制定されておるのである。従つて是等法律の解釈運用に当つては須く、その法意に鑑み合目的であり、且社会通念に照し最も合理的に行われなければならず、苛くもその法意を逸脱して之を濫用するが如きことがあつてはならないと同時に、徒らに人権擁護の名におびえて法律の意図する職責の忠実なる執行を忽せにするが如きことがあつてはならない。固より憲法の保障する個人の基本的人権は飽迄之を尊重すべきであるから、警察官と雖も職務執行に名を藉り、かりそめにも個人の人権を侵すが如きことがあつてはならないから、その職務執行に当つては刑事訴訟に関する規定によらない限り身体の拘束、同行又は答辯の強要を為すことが出来ないことは同執行法第二条第三項の規定によつて極めて明白であるが、その所謂基本的人権は国民の最大多数の最大幸福の線に沿う、公共の福祉の為には制約を受けることも亦多言を要しないところである。従つて警察官が同執行法第二条により所謂職務質問を為す場合には叙上の観点から公共の福祉と個人の人権保護との調和を図り、警察法に規定された職責を忠実に遂行する為必要な限度においては強制に亘らない程度において、相手方を停止させて質問することが出来るものと解するを相当とする。若し相手方が警察官の一応の質問に答えず、或は停止を肯んじなかつたとしても直ちに質問を打切るべきではなく、その具体的場合に即応し警察官としての良識と叡智を傾け臨機適宜の方法により、或は注意を与え、或は飜意せしめて本来の職責を忠実に遂行する為の努力を払うのが、寧ろ警察官の職務であると謂わなければならない。

而して之を上記認定の如き本件の場合について勘案するに尾関、吉野両巡査が前記の如き職務を帯びて警羅中前記認定の如き日時場所において被告人外三名の者が密談しているものと認められる情景を現認した以上警察官として当然前記特別傷害事件の犯人又はその他何等かの犯罪を犯し、若しくは犯そうとしているものではないかとの推定の下に職務上必要ありと認めて疑いの有無を明確にする為職務質問を為し得ることは勿論である。原審も亦之と同一の解釈に従い右両巡査が初め被告人等に対し質問したのは正当であると判断したことは原判決の理由説明によつて明白であり、原審のこの判断は固より相当である。然るに原審はその後の右両巡査の行為につき被告人が答辯を竣拒したのであるからその程度において質問を打切るべきであるのに被告人が逃走したからと云つて之を追跡し、被告人が倒転するや更に質問を続行し暗に答辯を強要するが如き態度に出たことは到底職務行為とは認められないと断じているから、進んでその判断の当否につき按ずるに、凡そ警察官の職務質問に対し、被告人が自己の氏名を秘して語らず、且その所持品につき前叙の如き応答を為し(原判決は答辯を竣拒したと認めているが、右の如き応答を為していることは明かである)警察官をして疑いを氷解せしむるに足る答辯を為さず、却つてその疑惑を深めるが如き瞹眛な言辞を構え、所持品の呈示を拒み、最寄派出所への同行を肯んぜず、あまつさえ所持品を携帯した侭突如その場を逃出すが如き挙動に出でれば、その行動自体明かに異常なる挙動であると認めざるを得ない。蓋し斯かる場合自己に何等疚しいところがない通常人であれば快く質問に答え、所持品を呈示開披して、警察官の疑いを解くの態度に出るのが寧ろ普通だと考えられるからである。然るに被告人は前記認定の如き状況下において突如その場を逃出したのであるから、之を見た尾関、吉野の両巡査がその時刻、場所、問答の経過等周囲の状況から合理的に判断して被告人が前記特別傷害事件の犯人又はその他何等かの犯罪を犯し若しくは犯そうとして居る者ではないかとの疑いを抱き、被告人が逃出すと云ふ異常の挙動に出たのは之が為であると直感することは社会通念に照し、極めて自然で且相当の判断と認められる。

この場合両巡査は同職務執行法第二条第一項の法意に従い、被告人を停止させて質問することが出来るものと解すべきであると同時に反面、その本来の職務権限に照し之を為すことがその職責であると謂わなければならない。却ち斯かる場合警察官としては故なく逃走する被告人を強制に亘らない程度において停止させ、警察官としての叡智を傾け臨機適切なる方法により被告人に注意を与え、その意を飜させ合法的に質問を行い、その疑いを解明する為に必要な努力を払い以つてその職責を忠実に遂行する責務があると解すべきである。かく解することが公共の福祉と、個人の人権保護との調和を図り且警察法の精神に叶ふ最も合目的的で且合理的な見解であると謂わなければならない。従つて或種の犯人ではないかの疑を持たれた被告人が逃走したからと云つて質問を途中で打切りその逃走し行く姿を唯慢然と拱手して見送り何等の措置を講ずべきでないと謂うが如きは、警羅中にある警察官としてその重要な任務と職責を忠実に遂行したものと云うことは出来ない。而して逃走する被告人を停止させて質問を続行する為には必然的に被告人の走る速度に順応して、その跡を追かけることは普通の場合最も通常の手段と謂わなければならない。即ち追跡なる行動は単に逃走する被告人の位置に接近する手段として必要な自然の行動であつて追跡なる行動自体を目して強制又は強制的手段であるとは考えられない。又被告人が疾走中転倒したのは偶然の出来事であつて決して警察官が期待した出来事でもなく、況して警察官の打撃に由来した出来事でもない、偶々被告人が転んだ機会に右両巡査が被告人の位置に接近し尾関巡査が被告人に対し逃げる理由を発問したに過ぎず、之を目して答辯を強要したものと観ることはできず、その外両巡査が被告人に対し何等強制又は強制的と認められる実力行使に出でた形跡はない、従つて両巡査の行為は固より職務行為として適法であると謂わなければならない。然るに被告人は尾関巡査の質問に答えるに先ち、転んだ侭の姿勢で靴穿の足を以て矢庭に両巡査を蹴り原判示の如き傷害を与えたものであるから、被告人の行為は正に公務執行妨害、傷害罪を構成する行為と認めざるを得ないから前掲の如き理由の下に被告人の行為は公務執行妨害罪を構成しないと判断した原判決は法令の解釈を誤り、事実を誤認した違法があり、この違法は判決に影響を及ぼすことが明白である。

仍てこの論旨は理由があり、原判決は破棄を免れないので検察官の控訴趣意第三点に関する判断を省略し、刑事訴訟法第三百八十条、第三百八十二条、第三百九十七条により原判決を破棄する。

辯護人桜井紀の控訴趣意第一、二点について

原判決認定の各傷害の事実は原判決挙示の証拠により之を認むるに足るから、原判決には所論の如き事実誤認の違法はなく、又被告人の行為を以て正当防衞行為であると認め得ない事は前記説明により明かであるから辯護人の論旨は採用出来ない。仍て刑事訴訟法第三百九十六条により被告人の本件控訴は之を棄却することとする。

而して本件は原裁判所が取調べた証拠により当裁判所において直ちに判決するに適するものと認めるから同法第四百条但書により当裁判所において判決する。

(裁判長裁判官 羽田秀雄 裁判官 鷲見勇平 小林登一)

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